メロヴィング朝
![]() メロヴィング朝(メロヴィングちょう、仏: Mérovingiens, 独: Merowinger, 英: Merovingian dynasty)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。 メロヴィングの名は、始祖クローヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。
建国と改宗フランドルを支配していた小国の王クローヴィス1世(465年 - 511年、在位481年 - 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。496年、クローヴィスはカトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教(異端宗派)から、家臣4,000名とともに正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した(クローヴィスの改宗)。これによって旧西ローマ帝国貴族の支持を得、領内のローマ系住民との関係も改善された。506年に西ゴートをヴイエの戦いで破り、その王アラリック2世を戦死させ、イベリア半島へ駆逐。王国の版図を広げた。 クローヴィス1世メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリク1世とその子クローヴィス1世である。 キルデリク1世の時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した。トゥールのグレゴリウスによれば、508年にランスの司教レミギウスによって洗礼を授けられて改宗したという見方が有力となりつつある[1][2]。 フランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年にアレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルダと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアンで公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[3]。 分裂![]() クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した。メロヴィング朝の分割は、王国を王の私的な財産と考えて行われたわけではなく、あくまでメロヴィング家の世襲財産として行われていたと見るべきである。したがって王の数だけ世襲財産の「持分」が存在したのであり、資格のある王が一人になれば世襲財産はその人物に集中する[4]。 6世紀から7世紀にかけての間に各分王国では徐々にそれぞれの貴族層が固定化され、それが地域的なアイデンティティにつながっていった。高まる各王国の自立性は、後述するクロタール2世の統一を最後に、メロヴィング朝を分裂へと導いていくのである[5]。 クロタール1世クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタール1世が死ぬ頃(561年)[6]には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。 再分割クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラムにはブルグントの支配が任された[7]。 三男カリベルトには王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。 567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。 クロタール2世613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。 教会政策614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については、王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と、教会への妥協であり王権の衰微であるという見解があり、アンリ・ピレンヌは前者の見解を取った。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。 クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策の転換期といえる。クロタール2世は、アウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[8]、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[8] [9]。一方、王妃ブルンヒルドを支持した従来のガロ・ローマン的セナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かった。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認できる。ロワール川以南では同時期40回を数えた[8]のに対し、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回のみであり[8]、ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も、セナトール貴族中心から7世紀を境にゲルマン貴族が目立つようになってくる。 ゲルマン貴族が司教職に進出した背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となり、多くのゲルマン人司教の養成に成功したことである[10]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[11]。 H. ヴィエルツボルスキーの研究によると、教会会議に参加する司教のローマ名と非ローマ名の割合が7世紀を境に大きく変化した。6世紀前半には出席者はほぼ全員がローマ名であったが、6世紀後半になると非ローマ名が増加し、7世紀には非ローマ名が約半数を占めている[11]。 王朝の終焉7世紀後半から王国の行政および財政を取り仕切る宮宰(きゅうさい, major domus)に実権が移ってゆく。とくにアウストラシアのカロリング家をはじめネウストリア、ブルグント三分国(地域)の宮宰が著しく台頭した。 714年から宮宰に就任していたカロリング家のカール・マルテルは教会から没収した土地を家臣たちへ与えて軍を再編[12]。その後、732年にはイベリア半島から領内に進攻してきたイスラム帝国のウマイヤ朝軍をトゥール・ポワティエ間の戦いにおいて破り、西欧キリスト教世界に対するイスラム勢力の進出を食い止めた[12]。751年にマルテルの子、ピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得てカロリング朝を開いたことで、メロヴィング朝は終わった[13]。 文化のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した。ピレンヌは次のような人物を列挙する。テウデベルト1世の寵臣であったアステリオルスおよびセクンディヌスは修辞学に秀でていた[14]。おなじくテウデベルト1世に仕えたパルテニウスもローマで教養を身につけた人物であった。クロタール2世の王室財務官をつとめたカオールのデシデリウスも雄弁術やローマ法に精通していた[15]。 ![]() 国王の一覧
系図
脚注
参考文献
関連項目 |